タイミングの読めない文通、だからこそ。

猫のポストカードの話になったのでこちらの記事を。

こちらは9月の末に猫田トランさんから届いたポストカード。

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一目見た瞬間うちの猫だと思ってしまったくらいハナヲによく似たポストカートでした(三好貴子さんという方のイラストのようです)。

先日のなぎねこさんと同じくうちの猫に似たポストカードを発見し、それを買って送って来てくださったトランさん。

なんというあたたかさ。
あまり猫の写真をアップするブログでもないのにちゃんと人の猫を記憶し、こうして送ってくださるとは…

届いた時はちょうど猫もヒトも一番しんどい時で、もうこんな風に猫と月を見上げることはないのかもしれないと、ポストカード片手にただただ涙がこぼれましたが、今は遺影のそばに飾っています。

届いたタイミングも、ポストカードを猫に見せながら話しかけたことも、全部忘れられない思い出になりました。
トランさんありがとうございました。

こんな風に文通というのはタイミングの読めないものです。
未来をのぞける眼鏡でもあれば、一番取り込んでいる時に送るべきではない手紙や葉書が判断できるのかもしれません。

が、自分はそういう不器用さも含めてやはり文通は楽しく、愛おしいものだと思っています。

手紙を送る相手が今幸せなのか、それともとても深い悲しみに沈んでいるのかは誰にも分かりません。
ある程度想像するのはとても大切なことですが、迷った末に出すことをやめてしまうよりは、やはり手紙は相手に届いたほうがいいものだと思います。

それに渦中にいた経験から言えば、それどころじゃない時というのは本当にそれどころではなく、どんなに気を回されてもそれが功を奏することはあまりないのではないかと思います。

悲しみの雨がふと上がった一瞬にあたたかい光が差し込んでいたことに気づくのであり、再び雨が降り出した後も自分はいいものを受け取ったんだなと心の一部が手紙の面積だけほんのりあたたかくなる、そんなものだと思います。

ということで、自分の能天気なブログも、今もしかしてどこかにとんでもなく悲しんでいる人がいるのかも、こんな風に馬鹿な文章を綴っていること自体が不謹慎なことなのかも、と思わないことにします。

繰り返しになりますが、それどころじゃない人はそれどころではなく、でもそういう人にもまたいつか穏やかな時間が必ず戻ってくると思うからです。